【暴論人類学】プペル公開間近!今だからこそ!問題点はどこかにあるのか?西野亮廣を解析してみた。
本サイトでもたびたび取り上げられている西野亮廣氏。
映画も公開間近。マルチに活動し常に話題になる彼を、シエロ教授が興味深く、外部から見える彼と彼の構造、階層を「人類学」的に解析する。
「西野亮廣」という現象
スマホで漢字変換すると候補に出てこない名前なのに、SNSの世界や一部メディアでは頻繁に目にする名前。
今や時代を代表する人物のひとりである西野氏だが、芸人という枠組みを超えてマルチ多彩な才能を発揮する本来の英語の意味でのタレント「才能」。
彼のことを絶賛する人もいれば、嫌う人もいる。多才ゆえ理解されない部分も多い。言動が理解されていないこともあったのだろう。
しかし、時代が後から追いついてきたのだろうか。今ではそんなことをいう人もいなくなった。
今では西野氏を芸人さんでお笑い芸人のイメージで捉える人はどれくらいいるだろうか。そうはねるのトびらの記憶。そして印象的なキングコングMー1ラストイヤー。彼のガナリ声のツッコミが力強かったのを私は憶えている。
芸人で「はねる」やM-1で頑張る西野氏を私は当然見ていたので、特に絵本やオンラインサロンの活動の初手はある種の戸惑いが隠せなかった。彼の著書を目にするまでは。そして著書に直接触れてからはまた違った感覚が。
わかっている。そうわかっているんだが。何故なんだろう。何故なんだろう。素直でない自分もいた。まっすぐ西野氏の活動を正視できていない自分。このことを今回はしっかりと述べていきたいと思う。
■自分の中にもいる「西野」
ちなみに私の持っている西野亮廣氏の著書は、堀江貴文氏との共著の「バカとつき合うな」絵本では、「えんとつ町のプペル」「チックタック~約束の時計台~」。サイン入りである。
満願寺で直接感じたこと
昨年、彼の地元である川西市で行われたイベント「チックタック~光る絵本と光る満願寺展」にも足を運んだ。本サイトでも記事として取り上げられたイベントである。
■西野氏がいる。
まさか満願寺にいるとは思ってなかったのだが、西野氏は観覧した人たちに丁寧にサインに応じている。その数はものすごい。実はどこか、ぞんざいにというか、あしらうように接するんだろうなとたかをくくっていて、そうなれば「西野!!正体見たり」やっぱりって思ってやろうと。しかし、そこで目にした西野氏は恐ろしく感じがよかった。
もう一度言っておく。
次に書くときには、今よりも客観性を失い、西野氏寄りの視点になっていそうなことが少々怖くもある。
感じがよかった。
気さくな感じで接していただき、人類学者的にもメロメロになった。
「おかしい」
なんか「おかしい」
どこかに抜け目があるはずだ。いいとこばかりじゃないはずだ。
訪れた方々全てに、気持ちよく接してくれる好青年という言葉がしっくりくるその姿を見ながらどんどん西野氏を好きになっていく自分がいることに気づいていくのだった。
拒否反応の正体
会う前に西野氏に抱いていたなんとも言えない不思議なネガ感は何なのだろうか。完璧すぎる西野ストーリーにどこか胡散臭さを感じているのか?それともある種の嫉妬なのだろうか。
そんな思いを持つ人は多いんだと思う。
多彩な才能。ゴールデンを張ったタレントとしての実績。
それに加えて、自分にはない能力や異次元に感じる発想力、それでいて即断即決に見えるスピーディーな行動力。
最近のマルチで多方面で結果を出している実績。
いや、そんなことではない。恥ずかしいけど、人類学者としてはっきり言おう。
「かっこいい」のだ。
もう一度言っておく、忘れないために
「かっこいい」のだ
うん、男から見ても西野氏は美しいのだ。それが、何か吹っ切れない「ネガ感」となって、西野氏を正視できなくする要因ではないのだろうか?
「カッコいい」だけやん!ってどこかで言いたいこの気持ちがあるのに、なんで?
絵が上手なのはいい。コミュニケーションが達者ならそれでいい。しかもかっこいいって。
「かっこよさ」とはそもそも、アイドル的に誰かに操られているある種の物悲しさを伴うからこそ共感を呼ぶんではないのか?
かっこよくてなんでもできてしまう、、、、、、。
そう言えば、中学の時に頭もよくてスポーツ万能で、かっこもいい同級生がいた。あらゆる面でずば抜けている彼に憧れもした。
「愛嬌」
あげるとすれば、この一点。中学の彼には愛嬌はなかったかもしれない。
日本人はもしかしてできないことに「共感」し、できることからは「孤独」が生まれるんじゃないか。西野氏はそういう意味では完璧なんじゃないか?中学の彼が備えてなかったいい意味での「愛嬌」も芸人という側面で備えてもいる。
そして、それを異質と感じ理解出来ない、あるいは認めたくない。そのような構図がうっすらわかっている私。認めないといけないのに認められない自分に対する嫌悪感。
「カッコいい」が西野亮廣氏に対する憧れと違和感となって表れているのだろうと思う。そうなのだ。造形的に美しいと人間の遺伝子で捉える対象は、本来語ってはいけないのだ、「じっとしている」だけでいいのだ。いわゆるダビデ像などの彫塑的な存在。そう、西野氏は不思議なくらい造形的に美しい。
そんな彫塑的存在がマルチに活躍するんだからそこに違和感や拒否感のような感情を持ってしまうのも無理はない。
造形的な理想のイデアが、「アホなこと」したり「芸術」を表現したりしているんだから。
そう、ダビデがダビデを彫っているみたいな。
その道の達人や大御所は素直に尊敬、敬意の感情を持つ人は多い。マルチな才能を認めたがらない風潮もある。この感情は自分自身の比較において起こる感情ではないかと思う。まだ何も十分な成果を出したいない自分が、マルチに多方面で活躍する人を見て思う感情。嫉妬や自己防衛本能がその感情の源ではないかと感じる。そしてネットで西野氏を叩く人も、少なからず私と同じ感情をいだいているのではないだろうかと思っていた。しかし、実はそうではなさそうだ。
マルチな才能云々よりも西野氏が彫塑的にカッコいいこと。これが現在の西野氏の「大問題」なのではないのか?
その意味では西野氏の活動はまだまだ道半ば。加齢によりその美しさも永遠ではないのだから。だから間違っても「プペル」が集大成なんて思わないで欲しい。いよいよ西野氏のワールドがスタートしたばかりなのだから。
人類学的に見て断言しよう!!西野さん、歳をとるときはかっこいい歳の取り方をしないでいきましょう。
西野亮廣氏を調べ始めたばかりだが、調べて行くにつれ、彼の素晴らしさと自分の中の葛藤が向き合うことになる。
そして相当の期間を費やさなければ、書ききれない内容になってしまいそうである。
書きたいことのほんの一部しか書けなかったが
今回は序章としてここまでにしたい。
(シエロ教授)