古民家カフェ「蓮月」輪島基史氏の日常。古民家の維持と意地。
東京都大田区にある古民家カフェ「蓮月」今では都内には珍しい古民家として、カフェはもとよりさまざまな撮影や映画など人々に親しまれている。しかしその維持は大変で、コロナ禍ではクラファンなどあらゆる形で存続を探っている。そんな「蓮月」の輪島氏の日常を綴る。
今日大学生と話した。
自分自身に何かを得ようとした彼自身の行動の先に今回は僕がいた。
とてもとても光栄だ。
彼はとても綺麗な目をしていた。
『人はなぜ悩むか知ってるか?』
『そのことを悩むと自分で決めたからだ。』
彼と話しながら自分の口から出た言葉に、そうだよなと思った。
俺はずっと悩んでる。
誰かに対してこうあって欲しいと思う心はそれぞれにあり、その気持ちが一致しないことがほとんどである。
自分が思うように、相手からもそう思われているとも思う。
全ては自分の経験や思考の軸からこうあった方がいいのではないか?という自分自身の思い込みでしかない。
意思を一致させることが出来る人間は存在しないと思っている。
それが出来たなら戦争もないどころか、個性も存在しないだろう。
その後、自宅で考えていると自分自身が悩んでることが少し分かった気がした。
本音の自分と、他者を想い優しい気持ちで見るということに転換して解釈している自分に、矛盾が生じて自分の内面での無意識にズレとの葛藤を繰り返しているのだと思った。
日本人で生きて、他者に気を使うことを美徳とする考え方は、
現代社会では精神的に疲弊することの方が多いのではないかと思っている。
考え方が多様化しすぎて、答えの出ないことに悩むことが蔓延しているように思う。
起きた。寝た。働いた。遊んだ。神に祈った。
シンプルな人は相手軸に合わせず、わがままをいう。
悪いことではないが言い方次第で相手は凹むし、自分も辛くなる。
接客業が長いので、色々なことを察して目の奥の思考を読み解こうとする習性がある。
相手の歩幅に合わせてあげるのか。
自分の歩幅に相手を合わせさせるのか。
それだけのことが色々複合して難しく考えすぎて悩んでしまう理由に思える。
俺は何者なのか。
今思う自分は、何者でもない。
選んだ状況や状態に合わせて、可能な限り臨機応変に動いてる人である。
夢を持て。
目標を持て。
社会はこうだ。
これが常識だ。
これが普通だ。
その基準に合わせようとするから自我とのバランスが難しくなり苦しくなるのではないだろうか。
色々アドバイスをしたりしたことも何度もあるのだけれど。
その責任を果たすのは自分でしかない。
明確な基準がない曖昧な状態に普通という基準値をなんとなく決めてその線引きで相手を見ることしか出来ない。
人間は曖昧な生き物である。
明確なことは生まれて死ぬことだけで、そこに曖昧な感情を物語に乗せて歩む生き物だ。
自分には1番正直にあろうと思う。
それがなかなか出来ないから悩み苦しいのだ。
『人はなぜ悩むか知ってるか?』
『そのことを悩むと自分で決めたからだ。』
そのうち俺は死ぬのだけれども、悩めるということは生きてるから出来ること。
今日もいい1日だった。
■輪島基史:古民家カフェ「蓮月」
池上に来てお店を始めるにあたりこのカフェの屋号をどうするか?
なぜ僕が池上に来てこの建物を残そうとするのかを考えました。
残すのは建物だけではなく、残したいと思った方々の愛着があったり、存在自体が物語だからなのかなと思いました。
蓮月庵というお蕎麦屋さんの後に出来たお店です。
名称は『蓮月』のままにしよう。
当時の面影は残そう。
何屋さんか分かりやすくしよう。
そう考えて『古民家カフェ蓮月』にしました。
事業の規模が小さな古着屋をやっていた僕には、今も規模が大き過ぎるなーと思いますが、
たくさんの方々に支えてもらい、助けてもらい、労ってもらい、かまってもらい、今もお店を続けられています。
1人ではなんも出来ないけれど、そんな僕を気にかけてくれる仲間はたくさん増えたと思います。