写真家菱田雄介の台湾旅情「40年ぶりのカラスミの味」
僕が初めて海外に行ったのは、多分小学校3年生くらいの頃で、行き先は台湾の高雄だった。父の友人だった黄さんを訪ねる旅で、1981年の台湾はまだ戒厳令が敷かれていた。
雑然とした街並みと、「もし空襲警報が鳴ったら防空壕に逃げる」というような会話が記憶に残っている。移動中の車の中では河島英五の「酒と泪と男と女」が繰り返し流れていて、いい曲だな、と思っていた。
黄さんの一家には同じくらいの子供もいて家族ぐるみで行き来していたけれど、中学、高校に上がり、やがて仕事をするようになるとすっかり疎遠になってしまっていた。
黄さんが亡くなったのは就職したばかりの頃で、両親はお葬式に行ったけれど、僕は驚きつつも台湾のお葬式に行くことはなかった。
黄さんの家業はカラスミ屋さんなので、彼が亡くなった後も実家には毎年、カラスミが届けられてきた。黄さんの息子たちも、日本やイギリスに留学したり結婚したりしていたのだけれど、その消息も何となく聞いていただけだった。
そして今日、僕は実に40年ぶりに高雄へとやって来た。当時泊まっていたホテルに泊まり、当時は無かった地下鉄と、当時は無かったGoogleマップを使い、あのカラスミ屋さんに向かった。
地下鉄の駅を上ると、大きな商店街が広がっていた。賑やかな通りを進み、左に折れるとそこに「カラスミ」の文字。迷うことなく中に入ると、黄さんの息子のチューマオと、黄さんの妻のレイファが待っていてくれた。
お茶を飲みながら近況を語り、東京の母親とテレビ電話で繋いで…と、楽しく時間は過ぎた。
店に古い写真が飾られているのを見て、僕は「黄さんの写真はありますか?」と聞いてみた。レイファがゴソゴソと探すと、古いアルバムが出てきて、ページをめくると、懐かしい黄さんの顔がそこにあった。イタリアでくつろぐ写真の後には、僕の両親と写った写真が沢山残されていた。
それを見た瞬間、僕の涙腺は崩壊した。ページをめくる度に、涙が止まらなかった。あの黄さんは死んでしまったのだな、という現実が一気に身体の中に入ってきたようだった。「ユスケ、ユスケ」と僕を呼んだ声は、今でもよく覚えている。しかし彼は、不慮の事故で突然死んでしまったのだ。
自分は割と冷淡な方だと思ってきたし、まさか台湾まで来てこんなに泣くとは思っていなかったが、本当に来て良かったと思った。
夜、チューマオ夫妻と再会。台北から来ていた弟のチェンロン夫妻も合流し、フェリーに乗って(5分の航路だが)旗津というところにある海鮮料理屋さんで夕食を食べた。
チェンロンがまだ6歳くらいの頃、うちに泊まりに来た時に「北斗の拳」のゲームをやっていて、ニンゲンが爆発する描写に目を覆っていたのを覚えている。その時のことを聞くと、チェンロンはしっかりと覚えていた!しかも翌日には自転車に乗って遊んだらしい。(こっちは覚えていない)
かなり遅くなった高雄への再訪だったが、遅すぎることはなかったと思う。
菱田雄介