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「有吉の壁」はバラエティの壁を潰すのか?「電波少年」から「水どう」「水だう」からの一押し新時代バラエティ考:西田二郎

 

 

コロナ禍でも勢いを失わなかった理由

今頑張っているテレビって何かって聞かれたら「有吉の壁」ということが多い。それは番組の作り方、演出の味付けがひと昔前なら「?」な形だったから。やらないことをやってしまって負けてしまうのはあたり前なんだが、有吉の壁にはそんな迷いから手探りで作っている感じはなく、のびのびとした新しいテレビのシークエンスを巧妙に泳いでいる印象が強い。コロナの中ではロケでの工夫も必要で十分な放送尺を賄えなかったことから再編集部分も多く放送するしかない現状も「番組認知」を進める好ファクターになったんだと思う。「水曜どうでしょう」の藤村ディレクターが番組開始あと、ほどなくしてにロケ、編集を全て一人で行っていて流石に毎週の放送には体が持たないと、8回放送したら一度、総集編を入れて「休み」を強制的に取っていた。これはテレビの方法論からしたらありえないことで、放送が間に合わないならスタッフを増強するなり、藤やんの体が壊れるまで走り続けて放送するというのが、「放送の正義」でもあった。しかしその正義に反して番組はどんどんとファンを獲得していく。番組の内容が素晴らしいのは当たり前だが、あたらめて番組を「見逃し放送」することで、視聴者のエンゲージが深くなることと、新しい視聴者のリーチを増やすことに貢献したのだと言える。「有吉の壁」もコロナによりゴールデン帯ではありえない再放送を連発したことで、エンゲージとリーチを獲得したのだと思う。「有吉」も「水どう」もある意味のゆるさが表現の隙間を作っていて、一回性のテレビにはない何回見ても見ていられる番組であったことも時代にマッチした理由でもある。

系譜でみるバラエティ

そもそも番組は系譜で考えるとオリジンやその本質に迫れることがあるんだが、有吉の壁には見当たらない。例えば「水曜日のダウンタウン」藤井演出はきっちり計算で運び紡ぎ出した片岡「めちゃイケ」演出をもっとめちゃめちゃにしているとも言えるし、「イッテQ」はよく言われることだが欽ちゃん→土屋「電波少年」の系譜から「遠くに行く」テレビの原点を忠実に守って今を紡いでいる。「チコちゃんに叱られる」は自身の小松演出をフジテレビからNHKにコンバートさせたことが革命であってもともとの「笑う犬」から「トリビア」のスローナレーションなど今までのフジテレビ小松演出を全部盛りでNHKに持って来たのだ。そう有吉の壁には確たる系譜が見当たらないのだ。無理に言えば「笑ってはいけない」なのかもしれないが、「笑って」は明快な「笑う」形が演者サイドというよりも演出サイドからの発信であるものの、「有吉」のそれはスタッフや作家と笑いを詰めているだろう。笑いの発信は芸人からのものだと思われるその形は「エンタの神様」のようでもあるがストロングスタイルの「エンタ」とは比べ物にならないほど笑いの柔軟性が高い。それは「笑い」の思惑を超えても笑えてしまうという多様性にある。この多様性に取り込まれて世代の枠が広がっているように感じる。

作り手のメッセージが匂う番組が「残る番組」

よく「記録に残る番組より記憶に残る番組」と言われることがあってバラエティ製作者はその言葉に精神的には多く共感していることだろうと思う。ではその記憶に残るとはなんなのか?視聴率というその時の記録より、時間をかけて心に刺さるクリエイティビティ。それは「製作者」の意図がいいにしろ、悪いにしろ形として表出する、いやしてしまうものなんだと思っている。「製作者」の顔が見える番組っていうけれど「電波少年」の土屋さんやなすDみたく番組に顔をだせばいいってことなんかではない。製作者の明快な意図が番組から伝わること、それは製作者が叫んでいるというより、番組から「匂い」がしてくるっていう方が表現に近いのかなあって思う。ものをいってくる番組より匂う番組の方が、記憶に残るのかなって。番組の正義を感じることはある種のイデオロギーを共有していくようなもので、「匂い」という捉えどころのない形を通じて刺さった視聴者の心に残すこと

番組から発する「匂い」

番組は視聴率の成功を基本求められている。すなわち、視聴率という「数字」の稼ぎ方という番組なりのオリジナルな方法である意味システム化していくのだ。もちろんそのことを非難しているわけでもなく、当たり前のように「稼ぎ方」の仕組みの中で正解が導き出されていくもの。演出のみならずあらゆるスタッフはその番組なりの「正解」を肌で、あるときは言語化して理解していく。

しかし「正解」だけを求めてクリエイティブを進めていくと、残念だが「匂い」が薄まっていく。ワンパターン、マンネリなどと言われる「手抜き」のようなルーティンであったりにならないように演出家は理解していて自分の壁超えるべく、自分を否定して次なる「匂い」を発そうとしていく。

正解だけが正解でないから

「匂い」とはズバリ時代や、常識なんかとは関係ない自分の正解を突き詰めることだ。世の中の正解だけに拘泥していたら「匂い」なんて出てこない。正解が必ずしも正解ではないんだって理解している演出こそが「残る」演出になるのだと思う。前出の「水だう」の藤井演出にはそんな「匂い」にこだわる意志を感じることが多い。とかく問題になりがちな番組なんだが、テレビ局や視聴者含めて支持するものが多いのもその「匂い」にこだわる姿勢が、いい子にしてテレビを流れる装置にしてはいけないという彼なりの「正解」を感じるからであり、その意味では「水だう」は間違いなく「記憶」に残していってるだろう。

こだわりがあるのかないのか「はぐらかす」壁を作った功績

多様な解釈を番組に与えられるよう詰め込んだ情報や見方を一つにしない。

「有吉の壁」について結果から言えば、成功したファクターはいくつもあげることはできる。時代の若者を追い込まず彼らのトーンで仕上げているとか、第七世代の勢いに上手に乗ったとか。

 実はこれは簡単なようでとても難しいことで間違えれば焦点のボケたはっきりしない味になってしまう。手を抜いているのか、製作者がものつくりをわかっていないのかって視聴者に不安を与えてしまうこともあるからだ。時代は多様な感覚を受け入れるといっている。しかし巷に横行する「常識」ポルノは自粛警察を生み、同調圧力という「みんな一緒」感覚を持って本来の多様性を一方で蝕んでいることに気づいていない。テレビも然り。多様性の価値観がまかり通るほど視聴者の目は優しいわけでもなく、間違いには容赦ないし、新しいのびのびした表現にも視聴率という指標だけ見れば評価されているということも少ない。そんな中での「有吉の壁」の存在は、新しいテレビの形を削り出しているのではないのか?新しいテレビの系譜として。

◾️西田二郎/NJ :「11PM」「EXテレビ」を経て「ダウンタウンDX」を演出。1998年制作会社「ワイズビジョン」出向、あまたの放送局と数々の番組を演出。希薄になりつつある人との「つなガリ」をテーマに、「ガリゲル」を演出した。タレントに頼らないバラエティ「西田二郎の無添加ですよ!」では民放連盟賞優秀賞。2015年より営業企画開発部、編成企画部を経てビジネスプロデュース局事業開発部。パインアメプロジェクトや第一興商プロジェクト、流通科学大学プロジェクトなどコンテンツとビジネスを繋げる施策から、NJ名義にて日本クラウン所属、FM 大阪にて自身のラジオも持つ。コロナ自粛中に手掛けた京都フィルハーモニー「オンライン東村山音頭」が話題に。未来のテレビを考える会代表幹事 京都フィルハーモニー室内合奏団 副理事長

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