【暴論人類学 教育論】天才を輩出する教育を考える
現代は激動の時代だ。めまぐるしく変わる世界の環境。
情報通信の技術革新は国家の明暗を左右し、医療テクノロジー、新型ウイルスの対策など、これらは人類の明暗をも左右する。
これらの問題を解決していくには、人材が必要だ。偉大な知性をもった人材だ。
このような人材を育成していくのは急務となっている。国、社会を上げて取り組むべきだと思う。
天から与えられた才能をどうするか
米中などは、天才的頭脳を持った人材の育成は国家戦略となっているようだ。
いつものように情報を調べていると様々な情報が見つかった。
天才のようなに、天から与ええられたような特異な才能をギフテッドと呼ぶようだ。
ある分野では傑出した能力を発現するが、その他の分野では平均以下というのがギフテッドの特徴である。
そしてその才能の特徴から、ギフテッドには発達障害児も含まれるというデータもあるようです。
ギフテッドの教育その長所をもっと伸ばし、尖った才能を発揮できる環境を作ることが求められており、国家を挙げて取り組んでいるようだ。
このような突出した才能とそれ以外の欠けた能力。
日本の今の社会、教育制度では、大成しないで潰れてしまう才能も多いだろうと思う。
日本の教育制度はこのような才能を伸ばすことにはなれていないように感じる。
このような才能は普通の教育システムではなく、才能を生かすために、今の教育制度、システムとは別のルートを整備する必要を感じる。
カリキュラムをこなすことに重点が置かれた既存の教育制度ではなく、天から与えられた才能を伸ばすことに重点を置いたシステムだ。
ギフテッドと呼ばれる天才は並の人間よりも劣っている部分、欠けた部分もあり、天から授かった才能が共存している。そのような人も多くいる。
私を含めた普通の人の常識とは違うイメージではないだろうか。
我々日本人の一般的イメージでは、天才は知性のスーパーマンという感じで、何でもすぐに出来る凄い人だが、そのような人は僅かしかいない天才たちのその中でもごく一部の人ということになる。
アインシュタインも尖った天才
相対性理論で知られる現代物理学の天才アインシュタイン。天才と言われればこの人を思い浮かべる人も多いだろう。彼も尖った才能を持ったギフテッドだと言われている。
彼は幼少の頃から天才と持て囃されていたのではないようだ。5歳までは言葉を発することが遅かったという。話すことが苦手なことを心配されていた。天才と言うよりは寧ろ今の基準でいうと発達障害に含まれるかも知れない。
だが彼は父親から方位磁石をもらってから科学に興味を持ち、数学、物理には天才的な才能を発揮するようになるが、それ以外は全く興味を示さなかったようだ。
その為、学校では優等生とは言えずに、数学ではレベルの違った質問をする扱いにくい子供だったようだ。
しかし彼の才能を伸ばす教育システムに出会えた為に、彼は潰れずに才能を開花させることができた。
アインシュタインは運が良かったとも見ることが出来るが、運が良かったから彼はアインシュタインとして名声を博すことが出来たとも言える。
運悪く才能を発揮出来ずに潰れていったギフテッドと呼ばれる相当数いただろうということだ。中にはアインシュタイン級の才能を持つ人もいたのではないか。
その人々の存在を私たちは知ることが出来ない。想像するに留まるだけだ。
日本の今の仕組みでは多分、万能型、欠けたとこのない天才は出てくるだろうが、尖った才能を持ち欠けたとことがあるギフテッドと呼ばれる天才は世に出てこれないのではないだろうか
このような社会の教育システムとは別に個々の親ができる教育方法も存在するようだ。モンテッソーリ教育など他にもあるかもしれない。
多様性のある教育はゆとり教育が担うべきだった。
バブル期以降は、目的、目標を探し方向性を考え導きだす人材の育成が急務になる。
多様性教育である。多様性は様々な環境、時代に適応する為の進化の基になる要素だ。
進化とは対極に特殊化というものがある。ある特定の環境に最適化して適応することで、その環境では発展に適しているが、環境が変わると、適応できなくなる。選択の幅が狭い、選択肢が少ないからである。
進化は多様性を含んでいる。様々な環境の変化に対応する為、余力を持たせている、それが多様性という可能性である。多様性を担保することで、変化に対する選択の幅と選択肢の数を確保しているのである。
自然界では適合出来ないものは淘汰される。だが人の社会の中では、相互扶助という形で最低限のセーフティラインが設けられる。多様性により適合出来ないものも共存できる形はいくらでも可能だと思う。
現環境に適応する特殊化、特化はマストではないと思う。
その多様性ある教育はゆとり教育が担うべきであった。
だが現実問題としてそうはなっていないようだ。
多様性というカリキュラムの画一性教育が行われていたようだ。
多様性教育ではその特性に応じて様々な教育システム、教育ルートが作られるべきだ。
才能、適正、能力などで、教えるべき、分野、内容、進み具合を変える必要があると思う。多様性を確保するにはそのような仕組みを整備しなければいけないと考えます。
ギフテッドに関して考えるならば、初等教育、小学生の頃から、すでに教えるという行為は適切ではないと思われる。彼らには、好奇心モチベーションを満たす学ぶという行為が適正だと考える。
彼らの能力は平均レベルのカリキュラムではなく、全く新たなものを生み出す為の知性を育むトレーニングの方が効果的であろう。
彼らにとって、形式に則って教えられる今の教育は馴染みの良いものではないと思う。
教育システムについて考える
目的、目標が明確な時代は、日本の画一性教育が機能した。だがそれはバブルの頃までだ。先進国に追いつき追い越せで日本はNo2にまでなったがそこが限界だった。
No1になる為には、自らの土俵をつくる必要がある。
ルールに縛られる側ではなく、ルールを作る側に回らなければ、No1にはなれない。
それ以降の人類の進む方向性を示さなければならいない。
新しいレールをつくる能力。国力。それが求められる。
そのような人材、および人材を育成する力は、その当時の日本にはなかったようだし、今もまだそのような仕組みは構築できていない。
先ほども述べたが多様な才能を伸ばす多様性教育。
従来の画一性教育は、尖った部分を削り、欠けた部分を埋めて、能力自体を底上げすることに重点が置かれているように思う。
多様性教育が目指すところは、尖った部分をより尖らせて差別化する。
欠けたとことは最低限補うか、補う別の方法を見つける。
社会全体で機能すればいいという考え方で割り切る。このような別の道が必要なのだと思う。
これは貴重な才能を潰さないように義務教育のところから始めるべきだと思う。
生きづらさについて
ギフテッドはその才能、個性によって現社会に馴染めないという生きづらさを抱えることが往々にしてあるようだ。
また親御さんに関してみても、育てづらさを感じることある。身に余る。扱いきれないと感じるようだ。
視点を変えると、本人が感じる生きづらさ、親が感じる扱いきれない育てづらさ。
それらの原因がギフテッドの才能である可能性は大いにあるということだ。
周囲の反応に驚き、また気兼ねして封印、閉じ込めた才能の可能性。自覚がないかも知れないが探ってみる価値はある。
才能が眠っているかも知れない。
そしてそれを才能として開花させる方法があるかも知れない。
社会にイノベーションを起こすような才能は誰からも初めは理解されないかも知れない。それはこれまでの社会になく誰も知らないものだからだ。
(シエロ教授)
シエロ教授:暴論極論を旨としたnoteを連載中
https://note.com/shieroprof